Sunday, December 27, 2009

節目單 - 亞細亞巴洛克VI 《惡之華》

海筆子企劃【亞細亞巴洛克Ⅵ】

亞細亞巴洛克10周年紀念公演
黃蝶南天舞踏團 《惡之華》



2010年1月1日(五)至1月3日(日) 每晚七點開演
地點: 樂生療養院 納骨堂旁 特設帳篷(台北縣新莊市中正路794號)



本屆演出,是我在台灣開始以舞踏作為表演方法後第十年的紀念公演。於此算起,我舞踏生涯多半是在台灣度過的。本次演出的舞者皆為十年前舉辦的舞踏工作坊中結識的夥伴。尤其是李薇,在菲律賓的民眾劇場相遇,帶我走出積雪深厚的北海道,而嚮導到台灣。她是支撐我舞踏活動的重要人物。本屆演出可謂亞細亞巴洛克的一個結晶,正是在台灣的人與文化、包括台灣在內的此海域周遭諸國的歷史、以及這些彼此的關係上才成就的。(「巴洛克」之原字意即為「有缺陷的珍珠」)

後來在台灣,我與樂生院結緣,便作出在「人為存活而奮鬥的現場」跳舞之選擇。因為希望我的表演能與當地常民的生命爍光之間建立對等的關係。不但為了居住於樂生的院民,也為了來自遠方的朋友,供大家觀賞,因此藉由於日常生活中誕生、至今仍根深蒂固於日常生活的藝能形式,展開演出。

《惡之華》指日本中古時期藝能者的生活場域「惡所」所開的花,即「跳舞、戲劇」等表演本身。代表日本的傳統表演藝術歌舞伎,也是從這裡發源。主要設置於河邊的「惡所」,亦為悼念死者的地方,生者與死者來往交集的所在。本屆演出奉獻給曾在樂生往生,往生後仍然遭迫遷至新納骨塔的阿伯、阿婆的靈魂。

耗費十年的時間,卻遇見十年前時空的旅程即將開啟,敬請各位預備就位。

正要開幕!

-------------秦かのこ



【惡之華與樂生院的「接!」】

馨文 2009.12.9

惡之華開會的時候,Rika很鄭重的向大家道歉,因為第一版DM上頭出了錯,寫成「樂生的運動結束」。她道歉,因為她已瞭解,沒有結束,而是要「過去、未來、接」,就像惡之華的表演一樣。講的時候,雙腿併著跪在地上說話的Rika,右手向右輕輕一捏,代表「過去」,左手一捏,代表「未來」,兩手在中間相碰,吐出個字,「接!」。

所謂「現在」,不就是個「接!」嗎?

2008年12月3日,我們和藍阿姨一起失去貞德舍。

那天,大家把貞德舍包圍起來保護,警察把人從地上一個一個拔起丟上警備車。人清空後,門外恢復寂靜,貞德舍裡頭,燈突然暗下,斷水斷電。寂靜中,警察撞門,每一扇門都在砰砰發響,警察拿電鋸鋸門,鎖發出尖銳的噪音,最後,警察破窗而入,藍阿姨趴在代步車上失聲痛哭。我們都記得,那天陽光很強、很刺眼。

從那之後,我們並沒有死亡。圖書館建立了起來、樂生社區學校的孩子們滿山遍野的跑著,藍阿姨在新處所掛上貞德舍的老招牌,種起蕃薯葉、茄子、紅菜、小黃瓜……一年來,藍阿姨經歷跌倒、小中風住院、又康復起來;林卻阿嬤也經歷跌倒、碰破頭、失去聽力、慢慢恢復了;呂阿伯曾經心臟無力昏倒、發現肝癌、住院,又出了院;李會長也病倒又站了起來。彷彿,希望在陽光下發芽,沒有什麼過不去的。

然而,一年後的12月3日,陽光燦爛,微微有風的平靜裡,我發現,住在朝陽舍的翁月阿嬤已經過世了,本來硬朗的楊榮發伯伯也陷入昏迷…...

我想起,2005年那年夏天。那時,每一天都有強制搬遷的危險,朝陽舍搬得只剩翁月阿嬤一人,我們一票人每天排班住朝陽舍,人少的時候像守衛,人多時像社辦。也實在說不上誰在陪誰,一起用廁所,共用洗澡間,一陣子後阿嬤終於忍不住拉開嗓門大罵:「嘛不知誰不規矩,查某的瞇啊,用完毋丟掉。」「便所用完嘛毋關門!」「啊,這群嬰仔,男生女生睏一間,啊那不行!」

我也想起,2008那年冬天,老是騎哈雷機車出門找相好的楊榮發伯伯因為肺癌末期,已經說不出話來。每當問他:「還好嗎?」他總吃力地從喉嚨深處擠出驚人的幾個字:「還 能活」。儘管如此,楊伯伯仍然買了全新的音響設備,每天聽重金屬、搖滾舞曲。當整個老屋子隨著重低音而輕輕震動,他哈雷機車般的生命力,彷彿又再度穿過已沙啞的喉、壞了的肺,回到體內。

那一天,我們拿了搖滾音樂到加護病房,給昏迷的他聽點音樂。我很傷心,聽音樂時他的眼皮動也沒動一下、心跳與血壓完全沒有改變。像是,靈魂已經鑽進了身體底很深很深,連重金屬也穿透不了的地方。

我多麼希望,他們能永遠永遠不離開。

Rika說,在日本河岸邊有種地方稱為「惡所」,是遊藝人、乞丐、娼妓、「化外之民」聚集的所在,「好男」、「好女」也進去。講的時候,中文表達很吃力的Rika,又比手劃腳起來:她右手捏一下,說「好男」,左手捏一下,說「好女」,指頭們相碰,併成小山尖,一同往前方指去,吐出動詞,「進去!」。像咒語,對著曾在樂生戰鬥的我們,「好男、好女、進去」。

佔據樂生這樣的一個地方戰鬥,是勢必得踩在生者與亡者,毀壞與新生之間的那條臨界線上的。我想起戰鬥的初期就投入的許麗明阿伯,2004那年冬天病倒了,插著呼吸器在病床上,他還不忘問:「開會的時候沒看到我,學生干有問起?」「有啊,當然有!」。我們當然也不可能忘記已經拆掉的貞德舍,還有林卻阿嬤在貞德舍泡的最後一杯牛奶。還有大樹下那塊孕育希望的場所。

在樂生這樣的一個地方戰鬥,在這個生死交「接!」的處所,我們勢必得學著與生者、亡者、雖死猶存者、死而復生者、雖生猶死者、醉生夢死者、以及「未生們」共生共存,在荒地、廢墟、亮晃晃的廢墟與欣欣向榮的荒地上頭結盟,開出新的花朵。

Rika將在一年初始的樂生院納骨塔旁演出「惡之華」,我很誠懇的邀請大家前來赴這場生與死、過去與未來、希望與絕望、荒蕪與華麗交「接!」的盛宴。接下它,與生者、亡者們一同創造過去與未來間一個連著一個的「接!」。

【工作人員表】
舞者:
秦Kanoko、李薇、許雅紅、林宜蓉、曾筱光

現場音樂:
黃思農

開場樂師:
段惠民、黃緣文

PA:
小V

製作:
黃蝶南天舞踏團

製作助理:
張芳綺、黃雅慧

舞台監督:
瓦旦塢瑪

舞台製作:
許宗仁、遠藤弘貴、櫻井大造

舞台美術/道具:
柯德峰、吳啟新、黃馨玉、羅淵德

燈光:
鄒雅荃

燈光助理:
林君亭

音效執行:
李昀

服裝:
黃蝶南天服裝部

前台:
曾令秀、陳惠善

公炊總管:
吳啟新

宣傳:
球球

票務:
黃雅慧

海報設計:
朱家聖

影像紀錄:
陳芯宜、廖敬堯、蘇美玉、倪武宏

平面攝影:
陳又維

翻譯:
林于竝、宗田昌人

協力:
王墨林、鍾喬、鴻鴻、陳憶玲、姚立群、賴澤君、小李飛櫻、胡仰中、張馨文、廖柏昇、林志堅、朱正明、余世華、尤苡人、林秀美、黃云起、李佩綺、王思靚、巫宛蓉、褚盈均、李立邇、黃淥、大喬、阿妮塔、朱小P、詹筑涵、陳昶昇、許智昕、彭剛、鄭卜榮、蘇菲、葉齡雅、西北、孫毓宏、采芯、鄭嘉林、柯蕙玲、江政樺、張孟芸、王沛汝、余孟翰、德永真紀子、段喻、微羽、羽衣 、羽生、安妤
特別感謝:
樂生保留自救會、IDEA Taiwan、青年樂生聯盟、樂生博物館、樂生社區學校 、差事劇團、身體氣象館、牯嶺街小劇場、榮峰畫室、野草莓資源管理組、水田部落、野戰之月海筆子、 北京帳篷小組、有夠亮有限公司、福麟布行、永勝帆布公司、龍伸舞台、 辛苦之王出版社、Sour Time腳踏車廚娘的店

呂德昌、傅裕惠、連長、張祐誠

黃蝶南天舞踏團相關活動訊息請見:
http://asiabaroque2009.blogspot.com/

Friday, December 11, 2009

創作自述 - 亞細亞巴洛克VI 《惡之華》

 公演に当たって秦Kanokoの文章(『亞細亞巴洛克VI-惡之華』公式ページより引用)。
《惡之華》創作自述(日文版)
段々おりてゆくよりほかないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある。メフィストにとってさえそれは「異端の民」だ。そこは「別の地獄」だ。一気にはゆけぬ。
ー谷川雁ー
台湾人の中で、太平洋戦争末期の沖縄戦での戦没者慰霊碑を訪れた方がいらっしゃるだろうか。二十万人もの戦没者の名前の中に、十数名の台湾人の名前が刻ま れている。あいうえお順に並んだ一番目に刻まれた名前は、実に『阿乞食』である。その人物の「生業」からそう呼ばれていたのか、或は、その人物の死を記憶 した人が後から名付けたのかはわからない。名前の上に「阿」をつける呼び方は日本の習慣には無いから、おそらく台湾人の間で呼ばれた名前だろう。その名前は沖縄人の戦死者とともに、沖縄の海を見渡す高台の、幾重にも並ぶ長い御影石の上に刻まれている。

その手前には、強制連行され沖縄で亡くなった三万人にのぼる朝鮮人の慰霊碑が、朝鮮の墳墓をかたどって建てられている。戦没者のなかには朝鮮人従軍慰安婦も多く含まれる。
二十万人近い沖縄戦戦没者の中から、たった一人の人物の名前にこだわり、その人物を取り上げることにどれほどの意味があるのか、私自身わからない。そして、その事を知らされる台湾人の方々は、およそ良い感情を抱かないだろう。その感情を逆撫でしてまで『阿乞食』の死を掘り起こすことは間違いかもしれない。しかも、掘り起こすと言っても具体的にその人物を知ろうということでもない。しかしながら『阿乞食』に取り憑いた私は、取り憑かれたも同然で、その名前に導かれ歩き出してしまったようだ。


沖縄は中国と日本の両方と朝貢関係を結ぶ琉球王朝であった。1871年に沖縄の宮古島の住民が台湾南部に漂着し、先住民と衝突する「牡丹社事件」が起こった。明治政府はこの事件を利用して清政府と交渉し、琉球の日本領有を認めさせた。まず、琉球国を廃して琉球藩とし、ついで1879年に兵を琉球に侵入させ 沖縄県を設置した。琉球はこのときより日本の本土の一部分となってしまった。日本がヨーロッパ帝国主義の行列に身を置こうと躍起になっていた時代である。

『阿乞食』が台湾海峡を渡ったのは台湾の日本統治時代だと思うが、『阿乞食』はどのような経緯で沖縄にたどり着いたのだろうか。また沖縄の人々とどのような関わりをもったのか。更に乞食という身分で戦時下をどう生き、そして亡くなったのか。
沖縄は太平洋戦争で唯一地上戦の戦場となった。「鉄の暴風」と称される米軍の砲爆撃で二十万人近い死者をだした。島民の三分の一が亡くなったことになる。敗戦から1974年の返還まで、沖縄はアメリカの占領下に置かれる。本土復帰後も米軍の駐留により沖縄の全面積の10.7パーセントがが米軍基地になり、「基地のなかに島がある」状況である。しかも、日本の米軍基地の75パーセントが沖縄に集中している。 

沖縄は近代日本の国民国家の枠に組み込まれて以来、いまも国家の暴力に晒され続けている。
近代以前、乞食は「生業」として成立し、それを支える『悪所』が存在していた。

古代から芸能の主たる担い手は、土地を持たぬ下層の民だった。吉事の到来を祈る「祝言人」と呼ばれそれにはまた“乞児”の字があてられた。「祝言人」には、神に代わって祝いの言葉を述べる人、門口に立って食を乞う人の二つの意味が同時に含まれる。

中世になると、芸能は寺社と深い関わりを持つ。寺社の境内は芸能興行の場所となり、有名な寺社は傘下に芸能集団を抱えていた。仏や神の功徳を称え、信仰の 道を説くという宗教的な名目を表看板に、社寺や仏像の建立・修繕のために金品を募る「勧進」興行として行なわれた。町域では、素性の分からぬ漂泊の「よそ 者」と排除されることは目に見えていたので、しだいに「河原」が常設の興行地になっていった。「河原」はまた、古い時代から死者の埋葬地であり、葬送が行 なわれるので俗世と冥界をつなぐ境界とされた土地だった。芸能者が「河原乞食」と呼ばれる由縁である。

近世に入り『悪所』が形成されていった。江戸時代では、遊女や芸能者を、社会秩序から外れていることを意味する「制外者」と呼んだ。「制外者」が活躍する 遊里・芝居町・非差別の集落を『悪所』と呼んだ。『悪所』は近世の身分制度で区分けされた居住区とは違った、一種特異な都市空間として発展する。身分の上下を越えて、アウト・ローを含めて誰でも出入りできる特異な場であり、地縁的な共同体関係とは無縁な、非日常的な空間であった。そして、境界性・周辺制を 帯びた地域で「混沌」が増殖し、遊女があこがれの的になる人倫秩序が転倒した場である。『悪所』には、制度化された「秩序」を破壊し、内側から既存の体制 を突き崩していくさまざまな要素が集積される、反権力・反体制の砦となる可能性があった。

明治政府は、全国的な戸籍制度をつくるにあたって、非差別民を平民籍に入れた。1871年公布の賤民解放令である。しかしその際、芸能者や漂泊民などの、戸籍制度の埒外にいる「流民」を徹底的に取り締まった。その時から一番厳しい排除と差別の歴史が始まる。


私たちが3年前に引き続き公演を行なう楽生院療養所は、近代に入ってから国家が進める近代化ゆえ、ハンセン病に対する誤った政府の対策で、半世紀以上に 渡ってハンセン病患者の排斥・隔離が行なわれて来た場所である。院民にとっては過酷な排除と差別の歴史であるが、その場は『悪所』的性格を合わせもっていたのではないか。地下鉄路線の拡張に伴い、院民の居住区の大半が取り壊された。自救会が身体を張って守ってきた抵抗の象徴であった納骨堂も、山ごと削り取られ平地にならされてしまった。数年に及ぶ抵抗運動は多くの学生、労働者、子どもと母親たち、知識層や表現者を動員して行なわれた。この多様性・混沌が許されることこそが現代の奇跡である。それゆえ、反権力・反体制の砦としての楽生院の『悪所』性を物語る。楽生院の居住区の保持を目的に行なってきた私たち の表現行動は、砦の大樹を失い一つの抵抗の形を終えた。最後の砦は崩されたように思われるが、わたしたちは自らを制度や体制の中に切り縮め、飼いならされ る必要は無い。今や最後の砦は自らの身体にある。この貧しい身体を〈悪〉の住処とし、その野辺に〈悪の華〉を開かせよう。踊り手の身体が、あの世とこの世 をつなぐ河原場となる。


公演会場は、真下にざっくりと削り取られた楽生院の旧居住区跡を見下ろす、山の上に新しく建てられた納骨堂の横である。この八年間で150名もの院民の方々が亡くなった。亡くなってからも新納骨堂への移住を余儀なくされた方々の魂へ捧げるべく、台湾の奉納芸能の形式に近づきたいと考えている。死者の参列は 必然である。心してお集り頂きたい。とは言え生者にとっては祝祭の空間である。にぎやかに執り行いたいものである。


今年の台湾の中元節に、友人の導きで初めて“放水燈”の行事に参加することができた。突然の大雨にかかわらず、海に放たれる燈籠と、海岸に打ち寄せられた 白じろとした流木が対照的であった。燈籠は死者の魂に捧げられたが、流木は死者の白骨そのもののようであった。沖縄・台湾が結ぶその弧の内海に沈むおびた だしい数の死者を想った。ここからつらなる島で眠る『阿乞食』を想った。

Tuesday, December 1, 2009

海筆子企劃【亞細亞巴洛克Ⅵ】亞細亞巴洛克10周年紀念公演

 久々の更新は、黃蝶南天舞踏團の公演の情報。
秦Kanoko 黃蝶南天舞踏團 《惡之華》

• 演出時間:
  • 2009年12月31日 (四) 下午14:00-15:30 (樂生院民特別演出場,不對外開 放)
  • 2010年1月1日 (五) 晚間 7:00
  • 2010年1月2日 (六) 晚間 7:00
  • 從公車站牌至演出場地步行約需30分鐘,請於六點半到場
    • 院區導覽:
    2010年1月1日、1月2日下午4:30樂生門口集合

    • 演出地點:
    樂生療養院 納骨堂旁 特設帳蓬(台北縣新莊市中正路794號)

    • 入場說明:
  • 本演出由『黃蝶南天舞踏團』獨立製作,請觀眾準備400元的紅包贊助演出。
  • 演出前30分鐘開放入場。
  • 訂票方式:12/1-12/30註明姓名/電話/場次/張數,E-mail至 asiabaroque2009@gmail.com 洽詢電話:0980-432-319
  • 每場座位有限,請提早預訂
  • 傍晚山區溫差大,敬請多添衣服。

  • • 交通指南:
  • 無車族:捷運西門線至西門町站6號出口出站轉635公車、捷運淡水線至中山站出口出站轉 636公車;或板橋-新莊-楊梅的臺北、三重、首都、新竹和桃園客運;桃園-新莊的桃園客運、基隆-中壢的國光號、在樂生療養院站下車(站牌就在院門口, 門口有指標以及志工引導。)
  • 有車族:機車、汽車-由省道台一甲往南過輔大後約3公里由中正路746巷(橡木桶旁)進入。 (進入樂生院後,請配合志工的引導停車)

  • 更多情資請見:
    惡之華網站 http://asiabaroque2009.blogspot.com/
    舞者:
    秦Kanoko、李薇、許雅紅、林宜蓉、曾筱光
    現場音樂:
    黃思農
    製作:
    黃蝶南天舞踏團
    製作助理:
    張芳綺、黃雅慧
    舞台監督:
    瓦旦塢瑪
    舞台製作:
    許宗仁、遠藤弘貴、櫻井大造
    舞台助理:
    段惠民
    舞台美術/道具:
    朱家聖、吳啟新、黃馨玉、羅淵德
    燈光:
    鄒雅荃
    燈光助理:
    林君亭
    音效執行:
    李昀
    服裝:
    黃蝶南天服裝部
    前台:
    曾令秀、陳惠善
    公炊總管:
    吳啟新
    宣傳:
    球球
    票務:
    黃雅慧
    海報設計:
    朱家聖
    影像紀錄:
    陳芯宜、廖敬堯、蘇美玉、倪武宏
    平面攝影:
    陳又維
    翻譯:
    林于竝、宗田昌人

    協力:
    王墨林、鍾喬、鴻鴻、賴澤君、胡仰中、張馨文、王思靚、黃云起、李佩綺、陳憶玲 、姚立群、德永真紀子、段喻、微羽、羽衣 、羽生、安妤

    特別感謝:
    樂生保留自救會、IDEA Taiwan、青年樂生聯盟、樂生博物館、樂生社區學校 、差事劇團、身體氣象館、野草莓資源管理組、水田部落、野戰之月海筆子、 北京帳篷小組、有夠亮有限公司、福麟布行、永勝帆布公司、龍伸舞台、 辛苦之王出版社、Sour Time腳踏車廚娘的店